【山梨県 甲州編】「恵林寺」風林火山ここに有り


【山梨県 甲州編】「恵林寺」風林火山ここに有り

風林火山の哲学

風林火山の哲学 武田信玄と言えば「風林火山」の文字が思い浮かばないだろうか。これは孫子が軍隊の進退(軍争)について述べた「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」の句から引用された言葉ではないかと予想される。引用文は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」である。
「故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」と表している。すなわち、戦いにおける心構えや、事の対処を表現した言葉である。
意味は、風のように素早く動き、林のように静かに構え、火が燃え盛るように激しい勢いで攻め、山のようにどっしりと構えて不動を保つ、といったところだろうか。
1561年頃から信玄が用いたと言われているが、旗をなびかせ戦の鬼と呼ばれた男の風格を見事に表現していると私は思う。

恵林寺を訪ねて

恵林寺を訪ねて 武田神社近くの墓所から遺骸が移葬された場所が「恵林寺」である。敷地内に墓があり、毎年4月12日が信玄の公忌である。
恵林寺には墓の他にも、信玄の50歳の時の顔をもとにして作られた武田不動尊や、夢窓疎石(国師)によって作られた庭園などが名所である。信玄にゆかりが深く、隣接する宝物館には信玄が使っていた鎧や兜、軍配団扇や風林火山の旗など多数の文化財が保管されている。
また、三門には、1582年、快川紹喜(国師)が織田軍に焼き討ちにあった際に詠んだ「滅却心頭火自涼」の句が記されている。
六角義弼(よしひつ)を寺に匿っていることを知った織田信長が、引渡しを求めるが寺側はこれを拒否した。従わなければ寺ごと燃やしてしまうと迫ったのだが、抵抗を続けた。その結果、織田の軍勢は寺の老若問わず僧衆100人余を山門に集め、火をかけて焼き殺したのである。山門脇にある土盛りの墓が、400年以上前の恩讐(恨み)を今でも物語っている。

※滅却心頭火自涼・・・心頭を滅却すれば火もまた涼し。
意味:無我の境地に入り無心になれば、火さえも涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、その身の上を超越して心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなる。

家代々、戦勝祈願の寺「雲峰寺」

家代々、戦勝祈願の寺「雲峰寺」 745年(奈良時代)に行基が開いたとされる雲峰寺。
行基が修行をしている時に雷が落ち、石が裂けた。そこから十一面観音(11の顔を持つ観音様)が現われたことから、その姿を萩の木に刻んで寺を作ったという言い伝えがある。
また、武田軍が出陣する際は、武田家代々の戦勝祈願の寺としても使われていた寺である。そのことから、武田家にまつわる様々な宝物がこの寺に託された。
日本最古として確認されている「日の丸の御旗(日章旗)」や、「風林火山」の旗などが寺の宝物殿に保管され展示されている。

乾徳山 恵林寺
乾徳山-恵林寺(夢窓国師築庭園)
住所:山梨県甲州市塩山小屋敷2280
お問合せ先:0553-33-3011(案内係まで)
[見どころ]本堂・夢窓国師築庭園・三門・四脚門・明王殿不動明王・信玄公の墓・庫裡・うぐいす廊下・宝物館

■放光寺
住所:山梨県甲州市塩山藤木2438
お問合せ先:0553-32-3340(案内係まで)
[見どころ]信玄が寄進した大般若経が保管されている。国の指定重要文化財である「天弓愛染明王坐像」も保管されている。

■向嶽寺
向嶽寺
住所:山梨県甲州市塩山上於曽2026
お問合せ先:0553-33-2090(案内係まで)
[見どころ]学問に励み、禅道の修行と精進を僧侶達に求めた信玄の「壁書」がある。

菅田天神社
菅田天神社
住所:山梨県甲州市塩山上於曾1054
お問合せ先:0553-48-2676(観光商工課まで)
[見どころ]甲斐源氏の守護神として崇拝されてきた神社。武田家が代々受け継いできた「楯無鎧」があり、宝物庫に保管されている。

雲峰寺
住所:山梨県甲州市塩山上萩原2678
お問合せ先:0553-33-3172(案内係まで)
[見どころ]日本最古として確認されている「日の丸の御旗(日章旗)」や、「風林火山」の旗などが寺の宝物殿に保管され展示されている。

■大善寺
大善寺
住所:山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
お問合せ先:0553-44-0027(案内係まで)
[見どころ]鎌倉時代に建造された国宝建造物。武田家の祈願所でもある。

栖雲寺
住所:山梨県甲州市大和町
お問合せ先:0553-48-2797(案内係まで)
[見どころ]武田信満(武田家第十三代当主)の墓があり、信玄の軍配や貴重品が保管されている。

武田家終焉の地「大和村」

武田家終焉の地「大和村」 信玄公亡き後を継いだ勝頼は1575年に「長篠の戦い」(愛知県新城市)で織田、徳川の連合軍に大敗する。撤退とともに甲府へと退いた。その後も幾度か戦いを繰り返すが態勢の挽回には至らなかった。そして躑躅ヶ崎館(現在の武田神社)を捨てて、韮崎市の高台に新府城を築くのである。
1582年2月末日、武田一族の親族である駿河江尻城主の穴山梅雪が家康の味方につくのである。同年3月3日、築城して間もない新府城に火を放ち、勝沼を経由し岩殿山(現在の大月駅の向かい)に向かった。
山中を逃走する中、岩殿城主である小山田信茂(武田家の家臣)が武田方を裏切ったことを知り、勝頼は田野の地(甲州市大和町)まで逃れたが北条夫人、長男信勝とともに自害してこの世を去るのである。
ここに新羅三郎義光に始まった名門武田家は20代目にして悲劇的な滅亡を迎えるのである。信玄がこの世を去って、わずか10年足らずの出来事であった。
そして、この地に徳川家康が「景徳院」を建てて勝頼公一族の魂を弔ったのである。

景徳院
住所:山梨県甲州市大和町田野389
お問合せ先:0553-48-2225(案内係まで)
[見どころ]武田勝頼を弔う為に徳川家康公が建立。勝頼、信勝、北条夫人の生害石や墓が並び、側近で務めていた者達(50名)の墓が建っている。

また、この戦いで猛烈に攻め寄せる織田方の滝川一益の兵に対して武田軍の土屋惣蔵が・・・ また、この戦いで猛烈に攻め寄せる織田方の滝川一益の兵に対して武田軍の土屋惣蔵が、渓谷の断崖絶壁に位置する狭い道で立ちふさがりフジつる(フジという植物のつる)をつかみ、片手1本で応戦したという伝説が残っている。この渓谷の道は、フジつるをつかまなければ通れないほど狭い道であった。
押し寄せる兵を斬りつけ大和村から笛吹川に流れ込む「日川」が血に染まり三日の間、消えなかったという。これが土屋惣蔵の片手千人切り伝説と、「日川」に伝わる「三日血川」の伝説である。

■土屋惣蔵 片手切りの石碑
土屋惣蔵 片手切りの石碑
所在地:日川に面した崖淵に建っている。