【静岡県 久能山編】最後の場所「久能山東照宮」


【静岡県 久能山編】最後の場所「久能山東照宮」

家康の遺言

家康の遺言 時は1616年、戦国乱世に悲運の子として生まれ、後に天下泰平をもたらしこの世を去った家康であったが、最後に遺命(遺言)を託している。
「私の遺骸は久能山に埋葬すること」、そう言い残している。
現在は「久野山東照宮」となっているが、もとは久能寺、その後に久能城が建っていた場所である。1617年に2代目の徳川将軍である秀忠によって東照宮(現在の久能山東照宮)が建てられたのだが、遺骸は久能山から下野国日光(栃木県日光)に移葬され「日光東照宮」で供養された。東照宮に在る奥之院に墓塔が建っており、その下に遺骸が葬られたのである。

なぜ久能山を選んだのか

なぜ久能山を選んだのか ここで一つの疑問が生じる。なぜ家康は故郷の三河国(愛知県東部)、または尾張(愛知)ではなく「久能山」を最後の場所に選んだのか。それは「縁」と、家康の「人柄」にあった。
家康を支えた四天王の一人に「榊原康政」がいる。康政の兄は清政である。清政は家康の長男である信康の側近として仕えていた。信長の妬み(嫉妬)で信康が自刃すると主を亡くした清政は後悔の念を表し辞職すると、弟である康政のもとに身を寄せるのである。1590年、後北条氏が滅亡すると康政は上野館林藩(埼玉県館林)10万石の領主の役を与えられ館林に住まいを移していた。
家康は「鷹狩り」を晩年(老後)の趣味としていた。1606年、康政がこの世を去った年に武蔵忍城(埼玉県行田)で鷹狩りをしている時のこと。康政の兄である清政もこれに招待されるが病のため行くことが出来なかったのである。
家康は病を気遣い清正のもとへ使者を出した。

久能山総門番「榊原家」

久能山総門番「榊原家」(榊原康政の画像) 家康は清政の病を気遣うと共に、これまでの榊原家の功績と忠誠に感謝の意を込め、家康が在城している駿府城に近い位置にあった「久能城」を清政に託す事を望んだのである。清政は一度これを辞退するも、再度の要請に応え3千石を領する久能城の城主として1607年2月に館林から久能城へと移住する。
これにより久能山の総門番(管理役)として榊原家は徳川家の管理職に任命されるのであった。
その後も家康は清政の病状を心配しては自ら久能城を訪問し、5,000俵(米)を与えるなどした。しかし清政は1607年5月2日、病に倒れ62歳でこの世を去るのであった。
清政亡き後は、息子の清久を呼んで鷹狩りを楽しむなど、榊原家への愛着は予想を超えるほどであった。清久は家康の好む旬の食材を献上するなどして家康を喜ばせ、気配りに優れた人間であった。

榊原清久

榊原清久 老後の家康はことのほか清久を可愛がり、久能山以外にも領地1500石を与えている。そして家康が死ぬ間際、清久を枕元に呼び遺言を立てるのである。
「久能山の西側に私の像を立てて、権力を持った大名の多い西国(日本西側の領土)を鎮護(争いが起こらぬよう)するのだぞ。わしの亡骸も埋葬せよ。」
西国の大名を睥睨(威嚇)しようと思う家康の執念と、清久と榊原家が存続できるよう遺命(遺言)したのである。その後も榊原家は久能山の総門番とし代々徳川家に仕え、久能山東照宮を管理した。
家康が埋葬されていた場所には「神廟(しんびょう)」が建てられており、今でも徳川家の聖地となっている。

久能山東照宮 久能山東照宮
住所:静岡県静岡市駿河区根古屋390
お問合せ先:054-237-2438(社務所まで)
[見どころ]表参道石段・一ノ門(展望は絶景)・門衛所・楼門・神厩・鼓楼・五重塔跡・神楽殿・神庫・日枝神社・社殿・廟所参道・神廟

田中城跡
住所:静岡県藤枝市田中
お問合せ先:054-644-3345(案内係まで)
[見どころ]家康が落とした城。西上(京都へ行く)際の宿地として使用された。

家康御陣場跡 ■家康御陣場跡
住所:静岡県榛原郡吉田町大幡1193
お問合せ先:0548-33-2152 (案内係まで)
[見どころ]武田信玄との「小山城の戦い」で1578年に家康が陣を構えた場所である。

能満寺 ■能満寺
住所:静岡県榛原郡吉田町片岡2517-1
お問合せ先:0548-32-1555(案内係まで)
[見どころ]安倍晴明が995年に中国から持ち帰って植えた「ソテツ(木)」が生えており、これを気に入った家康が駿府城へ一部を移植したという。裏山には「小山城」の跡地がある。

家康とゆかりの深い「掛川市」

掛川城 掛川城
住所:静岡県掛川市掛川1138-24
お問合せ先:0537-22-1146(案内係まで)

1569年 1月、旧掛川城のあった天王山に陣を張り、今川軍と掛川城をめぐり激しい攻防戦を行う。頑強な籠城戦を展開する今川軍に徳川軍も猛攻を続けるのだが、5ヶ月に渡る戦いの末、和議(和解)が成立する。
この和議において今川氏真は掛川城を家康に明け渡すこととなった。こうして戦国大名であった今川氏は消滅するのである。
また、この時の戦いで家康が城攻めを行おうとした時、濃い霧が城を覆い隠して城攻めを防いだという言い伝えから、掛川城を別名「雲霧城」と呼んでいる。掛川城を接収した家康は、家臣の石川家成を入城させ武田信玄との戦に備え、この地を防御拠点とした。

久延寺 ■久延寺
住所:静岡県掛川市佐夜鹿291
お問合せ先:0537-21-1149(観光協会まで)

掛川城主であった山内一豊(家康の家臣で、後に土佐24万石の大名となる)から久延寺の境内に設けられていた茶亭で「もてなし」を受けた。
家康はそのお礼として境内に五葉松を植えたという。また、家康は一豊に指示を出し、久延寺に観音堂を建立して毎年代参(参拝)させたといわれる。
関ヶ原の戦いに出陣する前、一豊が家康を接待した場所でもある。

横須賀城跡 横須賀城跡
住所:静岡県掛川市西大渕
お問合せ先:0537-21-1149(観光協会まで)

1574年、甲斐の武田勝頼に攻め落とされた高天神城を奪い返すため家康の家臣であった馬伏塚城主であった大須賀康高に命じて築かせた城である。家康は1575年から横須賀城を拠点として高天神城を攻撃し、1581年には高天神城を攻略し奪い返した。
その後は、高天神城に代わり、横須賀城がこの地域の拠点となった。