伊達政宗【独眼竜の伊達男 乱世に魅せた奥州覇道】


伊達政宗【独眼竜の伊達男 乱世に魅せた奥州覇道】

不運な幼少期

不運な幼少期 1567年9月5日、米沢城主である伊達輝宗と義姫の子として生まれた政宗。幼名は「梵天丸」と名付けられた。
母である義姫は名門、最上義守の娘であり、足利家に縁があることから自身の生い立ちに誇りを持っていた。土豪(地元の侍)上がりの伊達家を心のどこかで見下している節もあった。
そんな矢先、政宗が5歳の時である。病気による高熱が原因で天然痘(てんねんとう)を患い、片方の視力を失い失明してしまう。武家の長男でありながら片目が不自由と言うハンデを背負ってしまったのである。
義姫は政宗の不運を同情するどころか無情にも突き放すのである。父である輝宗は政宗を後継に考えていたのだが、義姫や家臣は「片目では世の中の半分しか見えない。」と罵り、伊達家の将来に不安を主張する者も出てくる有様であった。確かに物申す気持ちも分かるが、政宗にとってはさぞ辛かったことであろう。
その後も政宗に対する態度は冷たく、その弟である小次郎を溺愛してしまったのである。もちろん伊達家は小次郎に継がせると考えていた。

プロフィール

プロフィール 身長:159.4cm
血液型:B
本名:藤次郎政宗(とうじろうまさむね)
幼名:梵天(ぼんてん)丸
生没:1567〜1636年(享年70才)
※陸奥仙台藩62万石の初代藩主
特徴:面長で骨太、頭でっかちな性格
趣味:料理

梵天丸から政宗へ

梵天丸から政宗へ(片岡小十郎の画像) 1572年6月、梵天丸が6歳の時、資福寺の住職である虎哉宗乙から学問や妙心寺派(仏教)の教えを学ぶこととなる。9歳になると片倉小十郎が傅役(養育係)となり、戦国の世で生き抜くイロハを教わった。
その後、11歳で元服(成人式のようなもの)し「梵天丸」から「政宗」へと名を改めると、13歳にして結婚することとなる。嫁として迎えた愛姫は11歳で、戦国時代であったとは言え両者の年齢を見れば異例の早婚であったことが解る。
そして1581年6月、政宗にとって初の出陣となる相馬義胤との決戦が幕を開ける。輝宗が相馬氏との戦いを政宗の初陣に選んだ訳は、相手にとって不足は無し、伊達家が完敗する恐れもこれまた無し、という根拠のもと恰好の相手だったと言える。
早い年齢での元服と結婚、そして初陣に至るまでの流れは輝宗の意向であった。後継としての立場を明確なものにしたかったのであろう。
相馬氏との戦いにおいて特に目立った働きは見られなかったものの、この出陣をきっかけに伊達家の家臣は政宗に対する見方が良い方向へと傾くのである。政宗15歳の夏であった。

伊達家16代当主「伊達政宗」

伊達家16代当主「伊達政宗」 政宗18歳の5月、転機が訪れる。父である輝宗が伊達家15代当主を引退し、隠居するというのだ。輝宗は41歳で、誰がどう見ても早い引退であったことは確かである。そして後継には政宗を指名し、家督を継がせた。伊達家16代当主「伊達政宗」の誕生である。
輝宗が隠居したのも束の間、政宗が家督を継いだ翌年に畠山義継の手によって輝宗が拉致されてしまうのである。狩りに出かけていた政宗は急いで兵を収集し義継の跡を追った。父の救出に繰り出した、と言いたいところだが政宗は鉄砲隊を指揮し輝宗もろとも一人残さず撃ち殺した。その後、輝宗の四十九日の法要を済ませると、弔い合戦と称し畠山氏の居城であった二本松城を包囲し救援に駆け付けた畠山勢と戦うこととなる。敵方の軍は3万、かたや伊達の兵は1万3千であったため政宗は撤退戦を強いられることとなった。
かろうじて撤退に成功したものの殿軍を務めた鬼庭左月斎を失う結果となってしまった。

政宗、動き出す

政宗、動き出す その頃、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(関白)より「惣無事令(私戦禁止令)」が伊達家に発令される。しかし政宗はこれを無視し再度、二本松城を攻撃し落城させると、1588年には加美郡(宮城)に侵攻し大崎義隆を攻めるが、最上義光(最上義守の息子)が大崎氏の援軍に駆けつけたため苦戦することとなる。これを見兼ねた母の義姫が仲裁をし最上義光と和平が成立する。
和平から1年が経ち、政宗が動き出す。会津(福島)の蘆名義広を攻撃し「摺上原(すりあげはら)の戦い」にて蘆名氏を滅亡に追いやると、さらに須賀川(福島)へと兵を進め二階堂氏を滅ぼした。この頃になると、伊達家に服従する武家方も増えてきており、現在の福島県の中通り地方と会津地方、また山形県の南部、宮城県の南部を支配下に収め白河氏や南陸奥の豪族、また宮城県や岩手県の一部を支配していた大崎氏、葛西氏も政宗の支配下となったのである。
これにより伊達家は114万石の戦国大名となり、政宗の名は全国的に知れ渡るのであった。

小田原出陣への葛藤

小田原出陣への葛藤 1590年、政宗へ小田原征伐の要請が秀吉より命じられる。小田原へ出陣するにあたって政宗には葛藤があった。そもそも政宗はどちらかといえば反秀吉派である。
輝宗の弔い合戦と称して戦った「人取橋の戦い」では、すでに小田原に参戦していた岩城氏や佐竹氏と戦っている。その後、秀吉が発令した「惣無事令(私戦禁止令)」を無視し二本松城の攻撃や佐竹氏に対し威圧的行為を繰り返している。
極めつけは秀吉と親交の深かった蘆名氏を「摺上原(すりあげはら)の戦い」で滅亡に追いやり、秀吉はこれに対する政宗の意向を確かめるために呼び出していたが無視し続けていた。
奥州南部を制圧したとは言え、最上義光、津軽為信、秋田実季、南部信直、佐竹義宣、岩城常高、相馬義胤ら奥州に名を轟かせた武家方は秀吉の要請を受け小田原へと出陣していたため、政宗が小田原への出陣を拒めば伊達家が集中攻撃を受けることは目に見えていたのである。
東北全域を敵に回せば伊達家は生き残れない。そう判断した政宗は小田原出陣を決意する。

義姫の陰謀

義姫の陰謀 輝宗の隠居、政宗の家督継承、奥州南部の制覇、この流れを快く思わぬ者がいた。母の義姫である。義姫は小次郎に家督を継がせる決意は固く、いずれ実家である最上家の後押しを受けて伊達家の領地である会津、仙台を支配したいという目論見があった。
この時、政宗は「摺上原(すりあげはら)の戦い」に勝利すると居城を米沢城から黒川城へと移していた。それから時をしばらくして秀吉より小田原征伐の要請が命じられるのである。政宗はこの申し出を受けるため小田原へと出陣することとなった。
出陣前夜、義姫が動き出す。政宗の小田原出陣を聞きつけ見送りと称して宴会を開いたのだ。この機会を逃せば政宗を亡き者にすることは出来ないと考えた義姫は政宗の毒殺を企てたのである。そうとは知らず黒川城西館に招かれた政宗は、義姫との一時を過ごすこととなるのだが。

いくつかの諸説

いくつかの諸説(最上義光の画像) 政宗は並べられたご馳走を目の前にして「んっ?」と違和感を覚える。
「あんなに冷たい母ちゃんがいくら小田原出陣だからといって俺を喜ばせるようなことをするだろうか…」
とでも思ったのであろう。政宗は傍にいた者に毒見をさせた。政宗の予感は的中した。料理を食べた者はたちまち毒に侵された。これに激怒した政宗は、跡目争いの張本人である弟の小次郎を亡き者にしてしまう。
一説によれば義姫は兄の最上義光にそそのかされ毒殺に至ったとうい話もあるが、いずれにせよ義姫の絡み小次郎の死は確かであるゆえ、戦国の世とは実に恐ろしい時代である。
また、別の説を見れば「一度料理は食べたものの解毒剤により一命を取り留めた」という話もある。
しかし、この時代の毒薬といえば効き目の加減など出来るはずもなく、解毒剤などで回避できたのかなどという意見も聞こえてくるが、真相は誰にも分からない。
また、この話は後世の創作だという諸説も在り、これによると小次郎の死因については明らかとされていない。