【長野県 諏訪編】水中墓伝説の謎「最古 諏訪大社」


【長野県 諏訪編】水中墓伝説の謎「最古 諏訪大社」

諏訪湖に眠る「信玄水中墓伝説」

諏訪湖に眠る「信玄水中墓伝説」 歴史を語るうえで様々な伝説や秘話が昔から言い伝えられている。信玄にまつわる伝説が信州長野にも存在していた。
1573年4月12日に信濃駒場にてこの世を去った信玄であるが、3年の間このことを伏せて弟である信廉が影武者として務めを代行していたことは有名な話である。その間、信玄の遺骸が安置されていた場所が「諏訪湖の水中」ではないかという話だ。(甲陽軍鑑より)
1576年4月12日、夜が更けた頃、信玄を納めた石棺が諏訪湖に静かに沈められた。その際、作業にあたった侍たちの松明の赤い光に照らされて赤い泡を吹き出しながら湖底に沈んでいったと伝えられている。
他の諸説によると信玄没後は、武田神社近くの墓に埋葬されその後、恵林寺に移葬されたという話もあるが、「水中墓の伝説」はいかなるものなのだろうか。

水中墓の背景

水中墓の背景 1987年、水中墓が注目を集める。それは国土地理院の委託で諏訪湖の湖底を水中ソナーで調査していた民間会社の技師が何かを発見する。それは25メートルもある大きさで人工的に作られたような菱形をした「くぼみ(凹み)」であった。
菱形は武田家の家紋(武田菱)であるため、信玄の水中墓である可能性が高いという期待もあり、マスコミが取り上げ当時大きな騒ぎとなった。
湖底の調査は1988年から1990年までの間に5回にも及び行われた。しかし調査の結果、これが人工物であるということは確認できなかったのである。さらに調査を進めると、菱形(くぼみ)の内部に3〜4メートルの大きさの穴があることが確認された。
1989年の調査の際にはその穴の中から長さ70〜80センチの金属と思われる物体が水中モニターで確認されている。ドラム缶の類ではないだろうかと言われているが、15センチ大の文字で書かれた長さ25センチほどの石版や、桔梗(植物)の紋のお椀が1個発見されている。
また、菱形の「くぼみ(凹み)」は東西に17〜20メートル、南北に20数メートルの大きさの形状であることが確認されており、菱形の頂点が東西南北を指していることから自然の造形物とは考えにくいとされている。

信玄茶毘にふす「長岳寺」

信玄茶毘にふす「長岳寺」 「木枯しや いまはた遠き 信玄公火葬塚」
これは新田次郎(小説家)が詠んだ句である。寺の敷地内にも句を記した石碑が建てられている。
信玄の死後の話は先にも述べたように、武田神社近くの墓に移されたという説と諏訪湖の水中に沈められたという話がある。しかし、ここ長岳寺で茶毘(火葬)されたという説も残されている。
それは、信玄が亡き後、その頃「長岳寺」周辺の地を守っていた馬場美濃守と協力し、信玄が死んだことを隠し身代わりを甲州に送り、裕教法印と共に裏山にて火葬したという話である。そして信玄の灰を持ち帰り、寺に供養塔を建てたという。

信玄と川中島

信玄と川中島 長野といえば信濃。信玄が幾度となく合戦を繰り広げた戦舞台である。
1553年4月の葛尾城攻撃に始まり、上杉謙信と11年にも渡り信濃の領地権を巡り、川中島にて戦うこととなる。自他共に認める生涯のライバルである謙信と5度の戦を行った合戦地が「川中島」である。1561年、4回目となる合戦では両軍合わせて7千人もの死者を出したという。
1564年の塩崎の対陣で川中島での争いが終結すると、信玄は信濃(長野)の領地をほぼ手中に収めることが出来ていたのである。しかし、弟である信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らの有力人物を戦で失った(討たれた)のも事実である。

■諏訪湖
住所:長野県諏訪市諏訪1丁目

諏訪大社上社本宮
諏訪大社上社本宮
住所:長野県諏訪市中洲宮山1丁目
お問合せ先:0266-52-1919(案内係まで)
[見どころ]諏訪大社の頂点に位置していた諏訪頼重と戦ったことで縁の深い場所となっている。

長岳寺
住所:長野県下伊那郡阿智村駒場569
お問合せ先:0265-43-2967(案内係まで)
[見どころ]新田次郎の句碑・信玄の供養塔

根羽村の信玄塚
根羽村の信玄塚
住所:長野県下伊那郡根羽村横旗

川中島古戦場
住所:長野県長野市小島田町
お問合せ先:026-223-6050(観光案内まで)
[見どころ]八幡社・合戦地跡・一騎討ちの像

山本勘助の墓
山本勘助の墓
住所:長野県長野市松城町牧島
お問合せ先:026-223-6050(観光案内まで)
[見どころ]山本勘助の墓・千曲川河川敷