上杉謙信【愛と義に生きた戦のカリスマが求めた美学】


上杉謙信【愛と義に生きた戦のカリスマが求めた美学】

謙信の一生は戦いの日々であった。越後の虎と恐れられ、武田信玄の最大のライバルでもあった。正義感が強く、自分の利益のために戦いをすることはなく、最後まで「義」の精神を重んじた戦国武将といわれている。
大義名分を重んじ、戦のカリスマと呼ばれるまでになった上杉謙信の生い立ちを振り返ってみる。

プロフィール

プロフィール 身長:160cm
血液型:AB
好きな食べ物:梅干し
生没:1530〜1578年(享年49才)
幼少より仏門に励む虎千代(幼少期の名前)。元服して長尾景虎と成り、兄の晴景から家督を譲り受け18才にして越後国の主となる。生涯独身で、大酒飲みだったという。

長尾虎千代の誕生

謙信は越後の春日山城(現在の新潟県上越市)で産声をあげた。長尾為景の四男としてこの世に生を受け、寅年に生まれたことから幼名を「虎千代」と名付けられた。
幼い頃から体格が良く、性格に至っては大人びていたと言われている。また、大人に説くような教えでも4歳の時にはすでに理解できたという。他の兄弟に比べると癖があり、育てにくい子供であったらしいが、頭が良く虎千代の起こす行動には全て意味があり、父である為景は「この子は天から得難きものを得ているようだ」と言葉にしたそうだ。

虎千代、少年から青年へ

虎千代、少年から青年へ 7歳になると春日山城下にある林泉寺に預けられ、天室和尚のもとで学問や書道などの教えを受け始める。1543年8月15日に元服すると虎千代から「平三景虎」に名前を改め、兄の晴景に代わり、越後中部の長尾家領を統治するため栃尾城に入るのである。景虎、13歳の夏であった。
兄の晴景は病弱であったゆえになかなか越後中部の内紛を解決することが出来ずにいた。越後の武将たちは晴景を見くびり反乱を起こしてしまうのである。
この争いを統治するために出陣したのが景虎である。14歳にして初の出陣でありながら勝利を収めるのである。
軍の先頭に立ち、強者たちに打ち勝つ姿は少年とは思えないほどの勇ましさがあったという。「越後の虎」長尾景虎の誕生である。

「義」無き者は「人の道理にあらず」

「義」無き者は「人の道理にあらず」 その後、景虎は何度も戦に出陣するもその強さは負けることを知らず、幾度となく勝利を収めるのであった。そんな矢先の出来事である。当時、景虎が城入りしていた長尾家の家来である黒田秀忠が裏切り行為を起こすのである。
景虎は黒田を討つために出陣するのだが、黒田はこれに驚き、すぐさま降参してしまう。景虎は黒田に忠義を誓わせ、許したという。しかし黒田は、2度目の裏切り行為を起こすのである。
一度、忠義を誓ったにも関わらず、その行為を軽々しく踏みにじる者は人の生きる道から外れていると景虎は考え、兄の晴景と共に黒田を討ちに行くのである。これにより黒田秀忠の一族は滅びるのであった。

晴景と景虎の兄弟喧嘩

晴景と景虎の兄弟喧嘩 晴景は弟である景虎の存在に怯えていた。いつか自分を超えてしまうのではないかと。その様子に気づいた長尾政景(景虎の従兄弟)は晴景に入れ知恵をし、景虎を打つように仕向けるのである。
長尾政景は先手を取った方の勝ちだと晴景に告げ、6千の兵を引き連れ景虎の居る城へ攻め入るのである。しかし、この動きを事前に察知していた景虎は、長尾政景を迎え討つ準備がすでに出来ていた。いわば晴景と景虎の兄弟喧嘩である。
この動きに気づいた当時越後の守護代(越後を治めていた)上杉定実は晴景と景虎の仲裁に入り、晴景に景虎を養子に迎えるよう指示するのである。1548年12月30日、2人は「父子の義」を結び、兄弟喧嘩は終息するのであった。
これを機に、晴景を隠居させ、景虎が春日山城の城主となり長尾家の家督を相続したのである。19歳の冬、春日山守護代、長尾景虎の誕生であった。

越後国の主「長尾景虎」

越後国の主「長尾景虎」 景虎に転機が訪れる。1550年2月26日に上杉定実が死去すると、3月26日、その時代の将軍であった足利義輝から「白傘袋と毛氈の鞍覆の使用」を許されるのである。これは実質的には、国主大名の待遇と同じ扱いで越後国主の地位に認められたと言える。
時を同じくして密かに裏切りを企んでいる者がいた。長尾政景である。政景は景虎の守護代就任と長尾家を相続したことに対し、大きな不満を持っていた。1550年12月28日、自分の居城である坂戸城に籠り謀反(裏切り)を企てるのである。
景虎はこれに気づき、1551年8月1日に坂戸城を総攻撃すると政景に通告したのである。これを知った政景は景虎に誓詞(近いの言葉)を送り、許しを求めた。
景虎は政景を許すつもりはなかったのだが、姉の夫でもあり老臣(重役)たちの助命を促す言葉もあったため、政景の行為を許し総攻撃を中止したという。
その後、政景は景虎の部下となり忠誠の名のもとに力を尽くしたという。これによりそれまで絶えなかった長尾一族との争いに終止符が打たれ、1552年、景虎22歳の若さにして越後統一を成し遂げた瞬間であった。

吾こそは上杉謙信なり

吾こそは上杉謙信なり 世に有名な名前が「上杉謙信」である。しかし、謙信と成るまでにはいくつもの改名を経ている。正確にいつからが「謙信」となったのか定かではない。
長尾虎千代から7歳にして長尾景虎(長尾平三景虎)へと成り、22歳の時、養父である上杉憲政を助け上杉の家督を継ぎ、32歳の時には上杉政虎へと改名した。
その後も、その時代の将軍であった足利義輝の「輝」の文字を譲り受け上杉輝虎と改名し、40歳(1570年)を超えたあたりから上杉謙信へと名を改めるのである。

その生涯は戦の日々であった。14歳にして初陣を飾り、22歳にして越後統一、その後も12年間5度に渡って繰り広げられた武田軍との川中島の戦いや、北条氏康を攻め込む小田原城の戦い、同盟を破棄した北条氏政との戦いや生涯で最後の戦となる織田信長との戦いなど、謙信の49年間はまさに戦国の世を駆け抜けたと言えるであろう。
謙信の戦術や作戦などは天才的とも言われ、戦のカリスマとして後世に語り継がれている。また、自分自身を「毘沙門天」の生まれ変わりだと称し、人の道理と義理、人情に厚かった人物であったとも記されている。

謙信は、「四十九年 一炊の夢 一期の栄華 一盃の酒」と言い残しこの世を去っている。
己の四十九年は一眠りした間に見た夢のように儚い出来事だった。この生涯で極めた栄光も結局は一杯の酒のようで二杯目は無かった。とでも言いたかったのであろうか。
織田信長と同じ歳にして惜しくもこの世を去っていった。