【京都 本能寺偏】夢やぶれた夜「敵は本能寺にあり」


【京都 本能寺偏】夢やぶれた夜「敵は本能寺にあり」

信長の不覚

信長の不覚 1582年6月1日の出来事である。毛利攻めをしていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)への援軍を信長より命じられ、明智光秀は丹波亀山城(現在の京都府の亀岡地方)から1万2千〜5千の軍を率いて備中高松城(現在の岡山県の高松地方)へと向けて軍を進めていた。
ところが、京都の国境を越えた沓掛(くつかけ)に差し掛かったあたりで、京都方面へと引き返すのである。
この時、信長は、安土城から100名の兵を引き連れて本能寺で開かれる茶会に出席していた。
いつもであれば1500人以上の部下を引き連れて行動を起こす信長であるが、この日に限ってはそうではなかった。

信長の不覚 1582年6月2日の明け方、家来であるはずの明智軍に本能寺が包囲されていることに信長が気づく。だが、気づいたところですでに手遅れであることは明白であった。この時、明智秀満の軍と斎藤利三の軍が二手に分かれて本能寺へ侵入して来たという。
信長は100名の兵と共に応戦するが勝ち目は無かった。応戦しきれなくなると信長自ら寺に火を点け自害したのである。
しかし、本能寺の焼け跡からは信長の遺体どころか、それらしき骨さえも見つからなかったのである。これが歴史に記されるところの「本能寺の変」である。

本能寺の変の謎

本能寺の変の謎 本能寺の変にはいくつか不可解な謎がある。まず、光秀はなぜ信長を裏切ったのだろうか、そして、信長はなぜ少人数の兵しか引き連れていなかったのだろうか。焼け跡の本能寺からなぜ信長の遺体が出てこなかったのだろうか。
細かく語ればまだまだ謎の多い点はあるのだが、実に奇々怪々に謎めいた事件である。
これは余談であるが、明智光秀は信長を討つ数日前「愛宕(あたご)」という土地のお寺で「連歌会」に出席し、俳句を読み上げている。これを「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」というのだが、光秀が読み上げた句は、実に興味深い内容であった。

【ときは今 天が下しる 五月哉】
この句は一見、ただの五月の情景(※)を示した句に見えるのだが、明智光秀が裏切りの決意を詠んだ句ではないかと密かに囁かれている。
※五月の情景・・・梅雨時で雨が降り続く様子
明智光秀の本家は「土岐(とき)」という家柄であった。「ときは今」は「土岐は今」と読み、「天が下しる」とは「雨が降る」の事だが、この字を「天が下治る」に変えると「天下を治める」という意味には聞こえてこないだろうか。
裏切りを決意したかどうかについては定かでないが、日頃から光秀に対する信長の行為には行き過ぎた点が多かったのも事実である。

「是非に及ばず」信長の最後

「是非に及ばず」信長の最後 明智光秀の軍に本能寺が包囲され、側近の森蘭丸に信長が誰の仕業か訪ねた時、「明智の仕業に御座います」との返答を受けた信長は「是非に及ばず」と一言だけ口にしたという。
「是非に及ばず」とは、簡単に言ってしまえば「仕方がない事」という意味合いになる。光秀への振る舞いやこれまで自分が重ねてきた所業を想い出し、最後の時を悟ったのだろうか。死に際にしては実に興味深い言葉である。

■旧本能寺跡
住所:京都市中京区蛸薬師通 油小路東入元本能寺南町付近
本能寺
本能寺 住所:京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
お問合せ先:075-231-5335
[見どころ]織田信長廟・織田信長の墓・本能寺ノ変戦没者合祀墓

阿弥陀寺
住所:京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町14
お問合せ先:075-231-3538
[見どころ]阿弥陀寺山門・織田信長、信忠の墓・森兄弟の墓(蘭丸、力丸、坊丸)

■信長の首洗い井
住所:京都市中京区六角通新町西入西六角町109 京都逓信病院敷地内
お問合せ先:075-241-7167(京都逓信病院まで)

大徳寺総見院 大徳寺総見院
住所:京都市北区紫野大徳寺町59
お問合せ先:075-492-2630
[見どころ]土塀と鐘楼・織田信長と一族の墓

建勲神社(たけいさお)
住所:北区紫野北舟岡町49
お問合せ先:075-451-0170

■妙心寺玉鳳院
住所:京都市右京区花園妙心寺町1
お問合せ先:075-461-5226
[見どころ]織田信長、信忠父子の供養塔

大雲院
住所:京都市東山区祇園町南側594-1 (円山公園音楽堂の西側)
お問合せ先:075-531-5018
[見どころ]織田信長、信忠父子の供養塔

■旧二条城
住所:京都市上京区烏丸下立売通室町角
[見どころ]足利義昭の居城として信長が築城した二条城跡を示す石碑がある。現存している二条城は徳川家康が建てた建造物である。