【京都 伏見編】時を超えて「豪華爛漫 醍醐の花見」


【京都 伏見編】時を超えて「豪華爛漫 醍醐の花見」

天下統一までの道のり

天下統一までの道のり 1584年から1590年にかけて怒涛の如く秀吉は戦国の世を駆け抜けることとなる。
長久手の戦いをきっかけに家康を臣従させると摂津(大阪北西部)に大坂城を建て、関白(最高位の役職)の地位を授かる。
1585年、紀伊(和歌山)で根来衆、雑賀衆を攻めて(太田城水攻め)服従させると、四国の覇者である長宗我部元親に11万の軍勢で侵攻し勝利する。越中(富山)の有力大名であった佐々成政を攻め服従させると1586年には大政大臣と成り、朝廷から豊臣の姓を与えられた。関白「豊臣秀吉」の誕生である。
越水城で上杉景勝(謙信の養子)と面会し臣下に添えると、1587年には九州攻めを行い、島津氏を服従させるに至る。その後1588年に聚楽第を築くと、大坂城から移住し政務を京都で行うようになった。

太閣と成る

太閣と成る 1590年、遂に全国統一の総仕上げとなる戦いが幕を開ける。北条氏政を相手に小田原城攻めが開始された。静岡、神奈川、群馬、埼玉、東京、栃木、茨木、千葉を首領(支配下)とする戦国大名で、その勢いはすざましいものであった。
3月29日に開戦されてからおよそ3ヶ月後の7月5日、豊臣軍の圧勝で幕を閉じた。この時、小田原に駆けつけた伊達政宗も秀吉の臣下となっている。
翌1591年には千利休に切腹を命じている。諸説が幾通りかあり理由は定かではないが、要するに秀吉の機嫌を損ねてしまったためと考えられる。
全国統一を成し遂げたあとの目標は中国を日本に隷属させることであった。そのため豊臣秀次(養子)に関白の職を譲り国内統治を任せ、自身は太閣(会社で言えば会長)となり伏見で政務を行った。

桃山の伏見城

桃山の伏見城 太閣としての政務を行うため1591年、指月山に築城された城が「指月桃山城」である。しかし1596年に文禄の大地震で城が崩壊すると、木幡山に再構築した。このことから伏見城の別名は「木幡山伏見城」となっている。
その2年後、秀吉がこの世を去ると家康によって管理されることとなるが、1600年に起きた伏見城の戦いで炎上し落城することとなる。現在桃山町に建っている伏見城は、昭和39年に復元された模擬天守である。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」と、この句を残し1598年9月18日にこの世を去っている。享年62歳であった。

「露」とは葉の上につく水滴である。太陽が昇ると瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか跡形も残らない。「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことを指している。天下を統一し、関白になり、大坂城を築き、聚楽第を築いた。金と女に不自由なく遊んだ。
今思えば朝露が消えるようにアッという間の一生だった。我が人生は夢の中で夢を見ているような、儚いものであったことよ。…そう私には聞こえてくる。

醍醐の花見

醍醐の花見 1598年4月20日、醍醐寺において豊臣秀吉、秀頼、北政所、淀殿ら近親者、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に開催された花見の宴である。
宴会の席では正室である北政所の次に杯を受けるのを「淀殿」と「松の丸殿」が争い、「まつ」がその場を解決したという話が有名である。また、この花見で詠まれた和歌の短冊は今も三宝院に大事に保管されている。
古今東西の多彩な献上品やアトラクションが供せられる一方で、花見に参加した諸大名の間ではすでに、秀吉亡き後の政権の在り方について様々な駆け引きや腹の探り合いが行われていたという。
醍醐寺では秀吉の醍醐の花見にちなんで毎年4月の第2日曜日に、「豊太閤花見行列」を催している。

醍醐寺 伏見城
住所:京都府京都市伏見区桃山町大蔵45
お問合せ先:075-222-4130(観光局まで)
[見どころ]伏見城大手門・御香宮神社

醍醐寺 醍醐寺
住所:京都市伏見区醍醐東大路町22
お問合せ先:075-571-0002(案内係まで)
[見どころ]
・五重塔…平安時代952年に建てられた京都最古の建造物で国宝となっている。
・三宝院庭園…秀吉が「醍醐の花見」に際して自らが基本設計を執り行った庭である。
仁王門・金堂・清滝宮本殿と拝殿・唐門・三宝院・不動堂・伝法院大講堂・大鐘楼・弁天堂の池・女人堂

醍醐寺