豊臣秀吉【戦国一の出世人 太閣が見た夢のまた夢】


豊臣秀吉【戦国一の出世人 太閣が見た夢のまた夢】

百姓から天下統一へ

戦国乱世を生きた男の中で、これほどの出世人は例を見ない。確かに徳川家康も苦労を余儀なくされ天下統一へと這い上がった出世人ではあるが、生まれながらにしての身分があった。
秀吉は尾張中村(名古屋市中村区)に百姓の息子として生まれる。信長に仕え「猿」という通称は史実や時代劇などでも多く用いられ、知恵と気遣いの中で己の感性を研ぎ澄ましてきた人物と言えるであろう。また、交渉術にかけては右に出るものはいないというくらいの駆け引き上手である。
戦においては城攻めを得意とし、美濃の攻略戦、金ヶ崎の殿軍、山崎の合戦や小田原攻めなど評価される点は多い。内政においても、太閣検地や刀狩りなどの政策に力を発揮した手腕家でもある。築城に関する能力も長けている。
尾張から天下統一までと駆け上がった百姓の生き様を、歴史と共にその足取りを辿ってみよう。

プロフィール

プロフィール 身長:150cm
血液型:O
生没:1536〜1598年(享年63才)
出生:尾張愛知郡中村の百姓の息子。
通称:猿、はげ鼠、太閤様、天下統一を成し遂げ、関白となる。
旧名:日吉丸、木下藤吉郎、羽柴秀吉

出世について

出世について 秀吉の出生に関して明確に記された事実は存在していない。
1536年、尾張愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の足軽(下っ端の兵)、または農民であった木下弥右衛門と後の大政所の息子としてこの世に生を授かる。幼名についても明確な文献が無く、「日吉丸」という通称が一般的である。
一般的に流布されている(広まっている)話によれば、実父である木下弥右衛門が死去すると、実母(後の大政所)が竹阿弥と再婚する。秀吉は竹阿弥と仲が悪く、虐待を受けながら日々を過ごしていたが耐え切れず家を出ると、侍になるために尾張を離れ駿河国(静岡)へ旅立ったとされているが真相は不明である。
その後、今川家に仕えることとなるのだが戦の際に行方をくらまし、後に織田家に仕えることとなる。

猿、信長のもとへ

猿、信長のもとへ 歴史にはミステリーが必須である。秀吉と信長の「出逢い」についても謎ばかりである。と、言うよりも、それらを明確に記す文献は発掘されていないと言ったほうが正しいかもしれない。
結論から言ってしまうと、秀吉はもとより信長に狙いを定めて近づいたという説が一般的に多く見られる。
「太閤記」に記されている内容では、鷹狩に出かけた信長の帰りを待ち伏せして、家来にしてくれるよう志願したとか。
また、「武功夜話」の記録によれば、「馬借(運送業)」を営む尾張の生駒家に通い、後に信長の側室(嫁)となる吉乃に近づきご機嫌取りをし始める。なぜ、吉乃に目を付けたかというと「信長が吉乃を好いていたから」である。

信長に仕える

信長に仕える しばらくすると生駒家に居候するようになっていた。
この頃、信長も吉乃のもとへ頻繁に通っていた。ある日、秀吉の話を聞きた信長は秀吉を清洲城へ呼びつけるのである。ここで秀吉は面白い話をして信長を楽しませると、チャンスとばかりに自分を仕官(大名に仕える人)にさせてくれと直訴するのである。
当然ながら二つ返事で答えは「ノー」であった。しかし、秀吉は吉乃に口添えを頼み、信長に再度掛け合うのである。
こうして1554年、信長の小者(世話係)として仕えるようになるのである。
秀吉は若い頃「藤吉郎」と名乗っていたとあるが、その由来は、「藤原氏の流れを汲むといわれる織田家と、恩人である吉乃を組み合わせ、感謝の意を表したもの」であるという。
奉公(世話していた)時代の有名な話として「草履取り(主人の靴を管理する人)」をしていた時、外に出た信長が草履を履いた時、草履が温かいことに気づきこれを秀吉に問い尋ねたところ、「外は寒く足元が冷えますから温めておきました」と、胸元に草履跡を残しながら言ったという。

出世への序章

出世への序章 信長に仕えるようになった秀吉は、組頭(屋敷内で事務を行う人の補佐)、足軽大将(下っ端の兵をまとめる役)へと次々に出世していく。また、1561年には信長に仕えていた「ねね(後の高台院)」との恋愛の末、結婚に至る。
30歳(1565年)になると信長の悲願であった美濃(岐阜)攻めへの足がかりを作るべく「墨俣一夜城」を建築する。これは信濃の攻略(斎藤道山との戦い)には欠かせない重要な拠点地となるため築城することは必須であった。それに加え、短期間での完成が求められていた。
実は、この地に城を築くのは初めての事ではなかったのである。以前にも秀吉以外の者が建設に取り掛かったことがあるのだが、美濃の斎藤道三に攻撃を受け、築城を阻まれていたのである。

秀吉の功績

秀吉の功績 秀吉にとって出世への糸口となる絶好の機会であった。秀吉は試行錯誤の結果、木曽(長野県の西側)の山中から切り出した木材を長良川(岐阜県の中央を南下する川)の川上で加工した後、川の流れを利用して墨俣(墨俣一夜城の建設地)まで運び、現地で組み立てると言うプレハブ式工法(別な場所で資材を加工し現地で組み立てる)を実行したのである。
まずは外観だけを組立て、斎藤軍による攻撃を耐えながら改修を加えていき短期間のうちに城を築き上げるのである。1566年に城を完成させると、その功績を認められた秀吉は墨俣城の城主に任命されるのである。
信長の悲願であった美濃の攻略は成功し、その後、信長の京都進出へと向けて共に動き出すのであった。

激動の生涯

激動の生涯 1567年には美濃攻略を果たし、1573年には小谷城の戦いで浅井長政の討伐に貢献すると、2年後には長浜城(滋賀県)を築城し今浜から「長浜」へと改名する。
1580年には須磨国(兵庫県中西部)を統一すると、黒田官兵衛から姫路城を譲り受け淡路国(兵庫県)統一に至る。
1582年6月2日、本能寺の変で信長がこの世を去ると、11日後に明智光秀を亡きものにすると天下取りへの野望が顔を出し始める。
1584年には徳川家康と長久手(愛知県長久手市)にて戦うが勝敗がつかず、和解することとなり、家康の二男於義丸を養子に迎え「羽柴秀康」と命名する。これにより、家康は秀吉に臣従する(仕える)こととなり天下統一までの道のりが明確となる。翌1585年には大坂城を建て、住まいを大坂へと移すのであった。