徳川家康【江戸幕府を築き、その先で見た天下泰平】


徳川家康【江戸幕府を築き、その先で見た天下泰平】

織田信長、豊臣秀吉に仕え、後に天下を収めた出世人「徳川家康」。
戦国の世を終結させ江戸幕府を開き天下泰平をもたらせたことでも有名な人物ではないだろうか。彼もまた、尾張(愛知)を代表して歴史に名を残す武将の一人である。
信長の亡き後、秀吉に仕え石田三成との戦いは史実において外すことのできない歴史の足跡である。これが、後世に語り継がれた「関ヶ原の戦い」である。
信長、秀吉が成し得なかった長期政権の確立、270年もの間15代にわたる徳川幕府の基礎を築いた男でもある。政治面においても手腕を発揮し、諸大名との交渉術は絶妙である。時節(機会)を待つ忍耐力もあり、我慢強い一面もある。
もとは乏しい土地だった江戸を発展させ、現在の東京の基盤を作り上げた。

プロフィール

プロフィール 身長:156cm
体格:腹周りが110cm前後で肉付きが良かった
生没:1542〜1616年(74才)
徳川幕府の初代将軍。三河の豪族である松平広忠の嫡男(跡取り)として生まれる。秀吉に使えていた時は五大老筆頭であった。秀吉死後は名実ともに天下の覇者となる。
特徴:無駄遣いを好まず出費を抑えていた。(倹約家)負けず嫌いでもあった。 
好きな物:麦飯・お茶

奇想天外な幼少時代

1542年12月26日、寅の刻(午前四時ごろ)、三河国(現在の愛知県東部)の豪族、松平氏八代当主の松平広忠の嫡男(跡取り)として、岡崎城にて生まれる。母は水野忠政の娘である於大の方で、幼名を竹千代(たけちよ)と名付けた。
1547年に織田信秀(信長の父)が岡崎城を目掛けて大軍で押し寄せると、広忠は今川義元に助けを求めた。義元は援軍を送る代わりに広忠に人質を要求してきたのである。広忠は6歳になった竹千代を駿府(現在の静岡県)に送った。
竹千代の護送役を務めた田原城主の戸田宗光は、今川氏に背くことなく忠誠を誓っていた。ところが宗光は竹千代を駿府に送るどころか誘拐し、銭千貫文(1億5千万円相当)で織田信秀に売り飛ばしたのである。※松平記では百貫文と記されている。
竹千代5歳の時であった。

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い 1560年6月12日、尾張桶狭間にて尾張に侵攻してきた今川氏真、今川義元と織田信長との間にて争いが起こる。「桶狭間の戦い」である。
その頃、織田家を出て今川家の人質になっていた松平元康(徳川家康と名乗る前)は今川軍の最前線で戦い、織田軍の攻撃を受けていた大高城の救援部隊として戦っていた。救援は成功し、そのまま大高城の守備を務めていた。
桶狭間山にて、今川軍の指揮を執っていた今川義元が討たれてしまうと、元康は「撤退」か「玉砕」か、どちらかを迫られていた。 幸い、信長が追撃を抑えたため出陣には至らなかった。 その後、元康は今川家の管轄下にあった岡崎城が空き城になっていることを知り、大高城から撤退して岡崎城へと入るのである。15年ぶりの帰還であった。

家康、信長に仕える

家康、信長に仕える 1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川軍が放棄した岡崎城(愛知県岡崎市)に入り、今川家から解放されることとなる。義元の跡を継いだ今川氏真とも断行し、それを機に1562年には清洲城を訪問し、信長と同盟(清須同盟)を結ぶのである。1563年には元康から家康と名を改めた。
姉川、三方ヶ原、長篠の戦いと合戦が続く中、家康に転機が訪れる。1582年6月2日に起きた「本能寺の変」である。このとき家康は、堺(大阪)での視察(遊覧)を終え信長へ会うため京都へと向かっていた。
本能寺での出来事を知った家康は慌てた。供回り(付き添いの護衛)が少人数だったため、万が一戦になれば危険な状況であったからである。供回り(付き添いの護衛)をしていた服部半蔵(家康に仕えた武将)の進言により伊賀(三重県中部)越えを行い、伊勢の国から海路にて三河へと帰還したのであった。
その後、信長の敵を討つため明智光秀との戦いに備え尾張に軍を進める家康であったが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって光秀が討たれたという知らせが届くのである。

家康、秀吉に仕える

家康、秀吉に仕える 信長がこの世を去った後は、1584年2月27日には「従三位参議」、その翌月には「小牧・長久手の戦い」を経て徐々に主としての基盤を築いていくのであった。その2年後に2度目となる転機が訪れる。
家康は予てより豊臣秀吉に臣従(従うこと)を求められていた。1586年4月23日、臣従の要求を拒み続ける家康に対して秀吉は、妹である朝日姫を正室(嫁)として差し出した。当時の家康には正室がいなかったため良い機会だと考えたのである。
5月14日、家康と朝日姫は結婚することとなるのだが、家康は臣従を拒んでいた。しかし10月18日、秀吉が生みの母である大政所までも人質として岡崎城に送ってきたため、遂に家康は秀吉に臣従することを決意する。
10月20日に岡崎を出発し、10月26日に大坂に到着し豊臣秀長邸に宿泊した。その夜、秀吉が密かに家康に会い改めて臣従を求めたという。こうして家康は完全に秀吉に従うこととなり、10月27日には大坂城にて秀吉と謁見し、臣従を認めるのであった。

家康、天下人と成る

家康、天下人と成る 豊臣秀吉の死後、家康は五大老筆頭(秀吉に仕えた大名の中でも権力のある家臣)として実権を握ることとなる。
その後、ライバルであった前田利家が没するとさらに権力が増し、石田三成との間に起きた「関ヶ原の戦い」に勝利し反対勢力をねじ伏せると、1603年2月12日には「征夷大将軍」の宣下を受け、名実ともに天下人と成るのであった。同年には江戸幕府が開かれ、家康が天下統一を成し遂げた瞬間でもあった。
秀忠に徳川二代目の将軍の座を継承させると、家康だけではなく徳川家の天下であることを世に知らしめるのである。1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、その後は徳川幕藩体制(徳川の天下)が270年もの長期に渡り続くのであった。