武田信玄【風林火山 名将と恐れられた男の哲学】


武田信玄【風林火山 名将と恐れられた男の哲学】

風林火山の文字を旗になびかせ戦乱の世を駆け抜け、戦国最強と呼ばれた軍団の統率者で戦の鬼とまで恐れられた男こそ「武田信玄」である。
上杉謙信のライバルとしても有名であるが、「甲相駿三国同盟」や、戦の効率を考えて作られた「棒道」や「治水工事」など後世にまで伝わる数々の遺徳を残している。また、知恵の武将としても名高い人物である。
甲斐国(現在の山梨)を代表する名将の生涯を、歴史と合わせて史跡を辿ってみようと思う。

プロフィール

プロフィール 生没:1521〜1573年(享年53才)
本名:晴信
備考:甲斐守護職武田家19代当主
趣味:温泉・土木工事
特技:馬術(乗馬)

最強伝説の始まり

最強伝説の始まり 1521年、甲斐(現在の山梨県甲府市)守護職(地域の監督役)であった武田信虎の嫡男(後継者)として積翠寺(甲府市)にて生まれた。幼少期の名を「晴信」と言い、後に甲斐の虎と恐れられる男の誕生であった。父である信虎とはそりが合わず、あまり可愛がってもらえなかったという。
初の出陣となるのは15歳の時である。1536年、「海ノ口の戦い」にて武田信虎率いる甲州勢は8千の大軍で押しかけ平賀玄信の立て籠る海ノ口城を攻めたが、1ヶ月戦っても城は落とせなかったのである。12月に入り雪が降り始め、武田方の軍議(会議)では戦を撤退することと決まった。
その時である。晴信は自ら殿軍(シンガリと読む。軍の最後尾で後退を援護する部隊)を申し出た。そして武田軍は甲州を目指して退却するのであった。
その頃、海ノ口城では、勝利の宴が行われ、それが終わると多くの地侍達は自分の領地へと帰っていった。海ノ口城には平賀玄信と100名にも満たない兵が残るのみであった。
それを知った晴信は、直ぐさま軍を引き返し、海ノ口城に夜襲をかけたのである。この戦いで勝利を収め、見事に敵方の城を陥落させたのであった。

信濃へ進撃

信濃へ進撃 1541年、父である信虎を追放した晴信は、信濃(長野県と岐阜県の一部地域)へと進撃を開始するのである。晴信の進撃以前にも、信濃の領地を手中に収めようと父である信虎も幾度か奮闘したが成し得なかった。
甲斐は貧しい山国であり、武田家が都(京都)に上洛して天下を取るためには信濃は通り道であり、物資も豊富なため、領地にしておく必要があった。しかし、信濃には諏訪、村上、小笠原など多くの豪族が領地を構えており、支配下にするには容易な場所ではなかった。
戸石城では村上、小笠原の軍勢に2度に渡り大負け(戸石崩れ)していた。それでも武田軍は進撃を止めることはなかった。猛烈な勢いで戦を続け、信濃をほぼ手中に収めるのである。

「川中島の戦い」

「川中島の戦い」 1553年、川中島(長野県)を舞台に、北信濃の領地権を争って越後(新潟)の長尾景虎(上杉謙信)と11年に渡り戦った合戦が「川中島の戦い」である。
1553年一次合戦では「布施の戦い」、1555年二次合戦には「犀川の戦い」、1557年三次合戦で「上野原の戦い」、1561年四次合戦は「八幡原の戦い」、1564年五次合戦に「塩崎の対陣」である。これらを総称して「川中島の戦い」という。
その中でも最も激戦となったのが四次合戦である。互いに策を練り挑むのだが、謙信(その頃は上杉輝虎)に一歩先を越され八幡原にて窮地に立たされる。しかしこれを防ぎ命に支障はなかったが(三太刀七太刀)、上杉軍、武田軍の両軍を合わせて7千を超える死者を出す戦いとなった。
この戦いで晴信は弟である信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らの有力人物を失うこととなる。5度の合戦を繰り返すが勝敗はつかず、川中島の戦いは引き分けのままとなった。

甲相駿三国同盟

甲相駿三国同盟 1554年に結ばれた日本の戦国時代における和平協定である。この時代、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、駿河(静岡)を治めていた武田晴信、北条氏康、今川義元の三者によって結ばれた同盟である。三者が会合を行い締結されたという後述から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。
この同盟により晴信は信濃制圧を本格的に開始し、今川義元は尾張(愛知)の織田信長に対抗し(桶狭間の戦い)、北関東では北条氏康と上杉軍の争いが増した。小田原城の戦いでは北条氏康が晴信に援護を求め、晴信はこれに応え、川中島にて四次合戦が幕を開けるのである。同盟を背景に戦国の世における軍事行動が展開されるのであった。

駿河侵攻

駿河侵攻 川中島の戦いで信濃南部を手中に収めた信玄(1559年に晴信から改名)は、遠江(静岡県西部)制圧に向け駿河国(静岡県)へ進出する。同盟は桶狭間で敗れた今川義元の死をきっかけに険悪化したのである。
1567年、第一次となる駿河侵攻では1万2千の武田軍を率いて今川氏真(義元の後継者)と戦うのであるが、信玄は今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21人の武将を味方に付け、圧倒的に不利となった氏真は決戦を避け撤退したのである。こうして信玄は戦うことなく氏真に勝利するのであった。
1568年の二次侵攻では、北条氏政(氏康の後継者)と戦い、大宮城を攻略し富士郡を支配下に治めるのだが、1569年に三次となる侵攻で氏政と再び戦う。一度は駿河を撤退するものの三増峠の戦い(神奈川県)において北条方(氏政の弟)に大打撃を与えた。
それを機に信玄は再び駿河の遠江へ侵攻すると1570年、花沢城と徳之一色城(後の田中城)を落とし駿河を手中に収めたのである。

最後の時

最後の時 1572年、信玄は大軍を率いて京都へ向け甲府を出発する。その時代の将軍であった足利義昭から指示を受け織田信長を討つためであった。この報に織田信長はじめ諸国の大名は震え上がったに違いない。
まずは三方ヶ原(静岡県浜松)にて徳川家康率いる軍を蹴散らすのであるが、その直後にもともとの持病であった肺結核が悪化してしまう。武田軍は甲府に引き返すが、信玄はついに信州伊那(長野県南部)の駒場にて病死した。享年53歳であった。
信玄の死は3年の間、公にはされず弟である信廉が影武者として代わりを務めたと言われている。信玄の亡骸は、遺言により諏訪湖に沈められたという説(水中墓伝説)と、恵林寺に埋葬された説がある。
戦国最強の大名と恐れられた信玄だが、生涯のライバルである謙信と乱世を共にしたことで思わぬ遠回りとなり都へは辿り着けなかったのだろう。それは謙信にとっても同じことが言える。
信長は信玄と戦う覚悟を決めていたようだが、その訃報(信玄死去の報告)に胸をなで下ろしたに違いない。