真田幸村【難波にて可憐に散った戦人 六文銭の忠義】


真田幸村【難波にて可憐に散った戦人 六文銭の忠義】

転々とする幼少期

転々とする幼少期 1567年(仙台真田代々記によると1570年)に真田昌幸の次男として甲斐(山梨)に生まれ幼名を「弁丸」と名付ける。真田家は乱世の波に巻き込まれ次々と主君を変え、それに伴い住まいを移動していた。甲斐の武田に仕え、1575年に長篠の戦で武田勝頼が敗れると信濃(長野)上田へと移住し織田信長の配下となった。
1582年、本能寺の変で信長がこの世を去ると後ろ盾を失った真田家は北条氏直に仕え、その後、徳川家康に寝返ることとなる。しかし、真田の領土であった上野国(群馬県)沼田を北条氏に返すよう徳川家康から命令されたことに不満を抱き、越後(新潟)の上杉景勝を頼り上杉家に住まいを移す。この時、幸村は上杉家に人質として差し出された。
後の1585年、豊臣秀吉に臣従(仕える)を誓い、大阪城で暮らすこととなる。この時、弁丸(幸村)19歳であった。

プロフィール

プロフィール 身長:不明だが小柄
生没:1567〜1615年(享年49才)
通称:左衛門佐(さえもんのすけ)
幼名:源次郎、弁丸
本名:真田信繁
特徴:物静かで無口、穏やかな性格
好きな物:焼酎

真田一族、強者伝説

真田一族、強者伝説(真田昌幸の画像) 事の発端は家康と北条氏の同盟にあった。1584年、家康は小牧、長久手の戦いで秀吉と争うこととなるがこれに合わせて北条氏と同盟を結んだ。その条件として家康は、真田家の領地である上野国(群馬)沼田を勝手に北条氏へ譲渡するのである。
これに怒りを覚えた昌幸はそれまで仕えていた家康に反感し、1585年、越後(新潟)上杉家を頼り、弁丸(幸村)を人質として差し出す代わりに救援を求めたのである。弁丸は松代(長野)「海津城」にて暮らすこととなる。
その頃、真田家の居城である上田城が徳川軍に攻め込まれていた。徳川軍7千に対し真田軍2千の兵、世に言う「神川の戦い」である。これに我もと上杉の了承を得た弁丸は「上田城」へと出陣するのであった。
昌幸、信幸(兄)と共に戦い、徳川軍1300の死者、かたや真田軍は40人の死者を出した程度で大勝利にて幕を閉じ、真田家の名は戦国の世に知れ渡るのであった。

豊臣家への忠義

豊臣家への忠義(豊臣秀吉の画像) 幸村が秀吉に仕え始めたのは1585年からである。と同時に大阪城で暮らすこととなるのだが、生涯に通して幸村の豊臣家への忠義は図り知れないものであった。
1890年、小田原城攻めに繰り出した秀吉に従軍として出陣し、その8年後に秀吉がこの世を去ると豊臣家の家臣であった家康に従えるが、関が原の戦いが勃発すると西軍である石田三成(豊臣家五代家老)に従軍し父である昌幸と共に戦うこととなる。
西軍が敗北し、東軍である家康が勝利すると昌幸と幸村は窮地に立たされるが、兄の信幸が東軍に加勢(昌幸の策略)していたため高野山での謹慎処分で事なきを得た。その後、紀伊(和歌山)の九度山へと移され、1601年には長男である大助(幸昌)が誕生した。
10年後には父である昌幸が他界する。そんな矢先、幸村の人生で最大の戦となる「大坂の陣」が幕を開けるのであった。

大坂、冬の陣

大坂、冬の陣 1614年、その知らせは幸村の耳に入る。豊臣2代目を継いだ秀頼が家康に言い掛かりを付けられ大坂城にて合戦が開かれるという。「冬の陣」である。居ても立ってもいられない幸村は息子の幸昌を連れて九度山を抜け出し、大坂へと向かうのである。
幸村は後藤又兵衛と共に城外での合戦を進言するのだがこれを聞き入れてもらえず、秀頼は城内に立籠り応戦する道を選んだ。しかし、大坂城には攻め込まれる隙があった。玉造口(大坂城の南側)である。
そこで幸村はここに長宗我部盛親と協力し真田丸(出城)を構えて自らが応戦する道を選び、弱点を克服しようとしたのであった。家康は20万の大軍を率いて大阪城を包囲すると近隣を固めていた砦を次々と破っていく。砦を守っていた豊臣軍は大坂城内へと撤退し秀頼は劣勢を強いられていた。
ここで幸村は策を打つ。家康方として参陣していた加賀(石川)の有力大名である前田利光(2代目金沢藩主)を挑発し、野外戦へと発展させるのである。

勇将、真田幸村

勇将、真田幸村 1614年12月4日、散々に前田軍を挑発した幸村は、真田丸に押し掛けてきた兵たちに銃撃を浴びせ大ダメージを与える。それを知った徳川軍の井伊直孝と松平忠直が家康の許可を得ず八丁目口、谷町口で真田軍に攻撃を仕掛けるが、長宗我部盛親との攻防に手間取り、さらには真田丸に押し掛けてきた徳川の援軍にまで大ダメージを与えた。
最終的に「真田丸の戦い」において徳川軍は、2千を超える死傷者を出す結果となってしまい、家康は退却を命じることとなった。
ホッとしていたのも束の間、秀頼は家康と和平を交わし、大阪城の本丸のみを残して後は破壊することを条件とした。また、大野治長、織田有楽斎(長益)が息子を人質に出すという条件も付け加えられていた。
この和平により、大坂冬の陣は幕を下ろすのであったが…

大阪、夏の陣

冬の陣から1年、またもや戦火は切って落とされた。
発端は、和平の条件により大阪城の本丸以外を撤去していた徳川軍が、秀頼に許可なく大坂城の外堀を埋めだしたのである。これを抗議するも家康は透かすばかりで、遂に秀頼は軍を編成し徳川軍の攻撃に備えるのである。ここぞとばかりに家康も、2万の軍勢を率いて再び大阪城を包囲した。
1615年4月26日、戦国時代最後の合戦となる「夏の陣」が幕を開けた。幸村は冬の陣で家康が陣を構えていた茶臼山に軍を配備した。この時、上田(長野)の姉たちに向けて手紙を書いたという。要するにこの度の戦で、死を覚悟していたのである。
5月6日、後藤又兵衛、木村重成らが道明寺の戦いにて討ち取られると、撤退する豊臣軍の殿軍(軍の後方で追ってくる敵と戦う)を務め家康に加勢する伊達政宗の騎馬隊や鉄砲隊1万5千を蹴散らし、見事な退却戦を演じた。伊達軍の後に続いていた関東勢は、真田軍の勢いに恐れをなし、追撃をやめ退却を余儀なくされた。
この時、幸村は「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」という言葉を残している。

可憐に散った六文銭

可憐に散った六文銭 5月7日、幸村は息子の大助(幸昌)を大阪城に送り、秀頼の警護に当たらせた。
幸村は岡山口で徳川秀忠率いる軍勢相手に奮闘している大野治長に勝機を感じ、家康が1万5千の軍を率い本陣を構えている天王寺口に突撃を決心する。しかし、家康の陣地前には本多忠朝ら1万6千の軍が待ち構えていた。
打つ策は無し。ここが死に場所と決意し、突撃するのみであった。この突撃は後世にも語り継がれるほど、幸村、一世一代の晴れ舞台となった。
同日正午、幸村は3千の真田軍を率い六文銭の旗をなびかせながら突撃を開始した。一度と言わず二度、三度と猛攻を繰り返し、徳川軍の旗本(大名)を蹴散らし大将旗を掲げる武将どもを討ち取る。この時、家康は幸村の突撃に死を覚悟し、自害も考えていたという。
しかし三度目の攻撃で真田軍全員が討ち取られると、幸村自身も「安井神社」にて西尾宗次に討ち取られこの世を去る。享年49歳であった。幸村の息子である幸昌も、秀頼の後を追い大阪城にて自ら命を絶っている。

語り継がれる武勇説

語り継がれる武勇説 その凄まじい戦いざまを見た島津家久は、後に以下のような言葉を幸村の国許(故郷)へ送っている。
「五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。
真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。」

【真田日本一の兵。古よりの物語にもこれなき由】
「真田の兵は勇敢さも強さも日本一であった。昔から伝わる物語にすら真田の兵に匹敵する強者どもはいない」と、勇敢さを讃え、記した言葉である。